筋トレを始めたシニアが必ず直面するのは翌日の筋肉痛である。使っていなかった筋肉を鍛えると必ず筋肉痛は起こる。これは筋肉を成長させるための避けられないプロセスである。筋トレで損傷した筋肉細胞を修復する時に痛みを発症させる。筋肉痛がない筋トレは、あまり効果が無い。
ただ、体が筋トレを直ぐに受け付ける状態で無い時は筋トレの運動習慣を身に付けるという目的で筋肉痛が発症しない程度の筋トレをやり続ける事の意味はある。体は急に筋トレに適応できない。筋肉痛の酷さを軽くする意味合いで最初は筋トレで筋肉痛にならない程度から始めるのがシニアの筋トレである。
昨日2時間ほど筋トレをした。今、体中の筋肉が痛み始めている。昨夜の就寝時には体中の筋肉が熱を発している感覚で寝た。傷ついた筋肉細胞を修復する作業が体中で起きている証拠である。
横浜駅から海に向かって徒歩15分の場所に臨海パークがある。今日のランチは、OKストアで野菜天丼とソース焼きそばを買って臨海パークの公園内にあるベンチで海を眺めながら食べた。天気が良く気温が上がっていたので近くに住んでいる若い家族(母親と子供連れ)たちがピクニックに来ていた。
公園のベンチには、ホームレスらしき老人が荷物と一緒に寝ていた。彼を見ていると孤独と孤立が見えた。社会の中で目撃できる孤独と孤立ならば、問題を意識できる。これが、一人住まいのアパートに住んでいる高齢者であるならば、誰も気がつかない!孤立と孤独は隣り合わせだ。
一人暮らしの高齢者は増えている。長生きをすればするほど一人暮らしの生活になる。そんな時が必ずやってくる。今からどのような生活を送りたいかを考える必要がある。
世間では70歳も80歳もすべて「老人、高齢者」というラベル貼りをする。73歳であろうと88歳であろうと老人である。本人はそう思っていないのだが、世間の人は老人という言葉を押し付ける。
自分の年齢を意識した生活は考え方や感じ方で制限を作る。70歳以降の人生は最後の自由を楽しむ時期になる。私達は生まれてから学校に通い始めるまで自由に遊びを楽しんだ。遊びながら生まれ出た世界の事をちょっとづつ自分で学んだ。好奇心が新しい体験と発見で知識をもたらした。そこには学ぶ楽しさがあった。
年齢を意識すると自然とその年齢のイメージで自分の行動を制約し始める。老後は自分の時間を自由に楽しむのが命題になる。自由を制約する考え方は老後の楽しさを半減させる。
例えば、こんな女性写真の後ろ姿に好奇心を私は抱いている。
好奇心
自分がシニアの年齢になると自然と同年代以上のシニアに目が行く。共通点は、皆さん、デイパック(リュック)を背負って歩いていること(男性に限り)。定年退職をするとスーツ姿で出歩くことが激減する。そのため、自分の服装をどうしたら良いか迷い出す。
年金生活を送っているシニアは健康のために日中は自宅を出て街中を歩き回る。その時の服装をどうするかで奥さんから色々と指図が飛んでくる。変な格好で外出しないでねと私が困るからと。外出する時は奥さんの洋服チェックが入る。私の奥さんも私の外出時に厳しい目で服装をチェックする。
今日などはこんな感じで言われた。「あなたは帽子が似合わないからかぶらないでね。スラックスに運動靴は駄目だから革靴にして!」
80歳を過ぎ、年金生活で問題なく暮らしていける高齢者は何を生きがいに生きているのだろうか。私も幸運ならば80歳という年齢になれるかもしれない。その年齢になったときに私の生活はどうなっているのだろうか。その人にしかない老いの変化がある!
世の中の高齢者には、目標を持って生活をしている人と何もやることがない人がいる。生きがいがある高齢者は余生を充実させる。暇な時間でつまらない日々を送ることが無くなる。年齢が還暦を過ぎれば、他界するまでの年数がある程度予想できる。私は68歳なのであと20年ぐらいはこの世での生活が出来る可能性がある。それ以上は難しいかもしれない。
余生を楽しむには「生きる目的」を自分なりに作り出すことである。老いてくると生きる目的を見失う感覚を覚え始める。一人になると誰のために生きているのかを問い始める。ただ、一つ言えることは与えられた命という時間を楽しむために使うことである。生きる目的は余生を楽しむためにある。
人生の楽しみを探ってみるとこんなイメージが湧いてくる。
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