最寄りの駅、仕事をするタリーズカフェ、よく立ち寄るスーパーマーケットで不思議な人達を見かける。私の目から見て、一般の人と解釈できない人たちである。一人目は50歳代女性で独特のファッションと髪をしている。洋服はいつも同じなのですぐにその人であることが分かる。

二人目は仕事場として使っているタリーズカフェで見かける女装した長身の男性。ブロンドのロングヘアーのカツラをしながら、ワンピースを着ている。

三人目は夜の6時30分から7時頃に見かけるホームレス姿の50歳代男性。帰り道にある問屋の前でじっと道路を渡ったマンションを見つめている。服装も黒っぽいグリーン色のコートを着ている。私はただその人の前を通り過ぎるだけ。いつも、何をしているのだろうかと思いながら。

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全て自分勝手な解釈と常識がそのように感じさせている。実際にその3人と話をしていないのでわからない。また、誰かがその人達と会話をしている姿も見ていない。ひょっとしてこう思っている私自身も誰かから不思議な人として見られているのかもしれない。

70歳過ぎの老人男性が平日にタリーズに来てパソコンを開いて何やらやっている。会社員には見れないし、いつもアスレジャー姿でリュクを持ってきている。時々、ウエブで会議をしている。年齢的に見てすでに定年退職をしている老人に見える。タリーズで働いているアルバイトの女性たちはそのように見ているかもしれない。

直接話して聞いてみない限り本当の事は分からない。私が見ている3人の不思議な方々も話してみないと分からないが、私の好奇心を満たすために相手の時間を取るのは迷惑だ。 

世の中には色々な人がいる

会社員であった頃は会社員の心理や価値観が理解できていた。経営者として独立したときは経営者のマインドと考え方を理解していた。65歳になって年金を頂くようになってから老人たちが年金日を待ち遠しく思っている心を理解した。分からなくなっていることは10歳代、20歳代、30歳代の若者たちの考え方や価値観である。

婚姻届を先に出して結婚式はあとにするという時代。子供はいらないというカップル。一人で生活したほうが楽という価値観を持った若者たち。 

自分の価値観や常識を他人に押し付けて解釈をしない

人と接しながら仕事をする環境から離れると会話が少なくなる。私の周りにいる人達、見かける人たちぐらいしか見かけることがなくなる。人を見る、物を見るときに自分の常識や価値観で理解してしまうが、その理解で行動をしてしまうと何か間違いをしてしまうと感じる時がある。

人を見かけだけで判断しない。実際にその人と話してみないと本当の姿は分からない。見ただけの情報は偏っている。自分の経験、価値観、常識で勝手に印象を作ってしまう。学生の頃、こんなことを学んだ。Stop, Look, Listen!立ち止まって、見て、何が起きているかを聞く。情報を五感でできるだけ多く取得して対象の人に話しかけて確認する。本来こうあるべきなのであるが、相手にとって見れば余計なお世話になる。 

駅でよく見かける不思議な女性のことをもっと知ろうと思えば、話しかけてみれば良いと思うがそこまでしてその女性のことを知りたいとは思わないのでしないでいる。ただ、心の中でどんな人なんだろうかと思い続けている。なぜ、同じような服装で目立つ髪型をして立っているのだろうかと。別に他人に迷惑行為をしていないので安全なのだが、不思議でならない。

世の中には色々な人がいる。勝手な思い込みや解釈で知らない人を判断しないこと。

他人の目を気にしないで自由に生きる権利がある

昭和世代の人は世間体を今の人以上に気にする。他人は他人、自分は自分という考え方がシニアにどれほど根付いているかどうか。組織内で働いているときは同僚や上司の視線を気にして生活をしていた。それが見えないストレスになっていた。組織から離れて仕事を始めたら、左足裏に出来てなかなか治らなかった魚の目が自然消滅した。精神的なストレスが魚の目となって体に現れていたのではと思う。 

タリーズカフェで見かける女装の長身男性。ブロンドのロングヘアーとワンピースでカフェにかるのだが、私の目には女性に見えなかった。歩き方が男性の歩き方。体の体格が女性のような感じに見えなかった。歩いている足首を見ると男性の足首に見えた。彼にしてみれば自分のライフスタイルを送っているだけである。他人の目を気にするような素振りは微塵もない。彼は自分の世界で自由に生きている。 

シニアのライフスタイルも好きなことをして余生を過ごすということが基本であるので他人の目を気にする必要がない。私は筋トレで蛍光色のTシャツを着て運動をして、そのままの姿で食事に出かけたり、カフェで仕事をしたりしている(春、夏、秋、限定)。 アスレジャー姿である。

スポーツジムに来るシニアたちは筋トレ後シャワーを浴びて着替える。私は着替えない。運動着姿でその日を過ごす。レギンスと蛍光色のシャツはシニア男性のスタイルとしては目立つ。レギンスは運動するうえで動きやすい。蛍光色のシャツは気分を良くする。周りの人たちは暗い色の運動シャツを着ているので。自分が満足するスタイルを私はしている。

生きていられるのもあと10年から20年ぐらいかもしれないので世間のしがらみや常識という縛りに管理されたくない。

傍観者は余計なお世話をしない

電車の中を観察していると色々な行動を取る人たちが目に入る。席の取り方に特徴がある。二人席、三人席に一人でも座っていると別の空いている席を探しに次の車両に行く人。あえて、ドアの近くに立つことを選択する人。若い女性の隣に座ろうとするシニア男性がいるとその女性が立ち上がって別の空いている席に移動する。シニア、障害者、妊婦や幼児優先席に座ってスマホを見ている若い女性や男性。シニアの人はそんな若者たちを見て一言言いたくなる。

嫌な感情を言葉で言わないで行動で感情表現する人が多い。シニアは切れやすい。昔の価値観で感情的に切れるとつい強い言葉が口が出てしまう。それが言い争いになって電車の中で口喧嘩になる。傍観者として何が原因で口喧嘩をしているかを理解しようとするが実態は分からない。変な野次馬にならないように様子を見ているだけである。

体力的の衰えているシニアは自分の身を守るために傍観者であるべきではないか。余計なお世話をしていらぬ災いをもらうべきではない。間接に何ができるかを考えて行動を起こすのが正解ではないか。電車内の公衆マナーを守らない人がいるが、相手を見て余計なお世話にならないかを判断する。シニアは肉体的に弱者であることを認識すべきではないか。

世の中には色々な人がいる。シニアは弱者であるという前提で余計なことに首を突っ込まないのが原則である。

 

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結論:

2025年12月31日である。家での大掃除を終えて一服している方たちがいるかも知れない。私はトイレと浴室の大掃除をやって、このブログ記事を書いている。仕事納めと筋トレ納めを29日に終えた。今年も無事に生き延びたという感じである。生きているという感じは「今」しか分からない。過去は過ぎ、未来はどうなるか誰も分からない。希望としては少なくとも男性の平均寿命まで生き延びたい。82歳まで生きられれば、十分かもしれない。普通に老後の生活を楽しめる健康と肉体であれば、それで満足である。

1年毎に年齢が増えるたびに社会との接点が希薄になる。自分の常識と解釈で身の回りに起きることを理解してしまう。思ったことをそのまま行動に移すと他人にとって余計なお世話と映るかもしれない。現実を確認しないで頭の中だけで解釈するのは危険である。老人の常識の半分以上が現実の世界では非常識になっていると私は思っている。孫たちから学ぶ必要がある。

私達の世代の常識には多様性を受け入れる教育がなかった。今の若者たちは男性の女装を見ても過敏に反応しない。若者向けの洋服も男女兼用が多くなっている。若い女性も男性用のジーンズやトレーナーを着たりしている。

老人は目に見えている現実を自分の常識で解釈しないでまず受け入れてみる。現実に起きていることが事実である。10年、20年、30年前に起きていないことが今起きている。昔はこうだった、ああだったと思わないこと。孫たちが現実を体験して学ぶ姿勢が老人には必要になる。