横浜ビジネスパークにある野外のテーブルでちょっと早いランチをしていたら、どこから一人の老人男性が近くのテーブルに座った。手には、缶ビールとつまみのビスタチオを持っていた。しばらくするとビールを飲みだした。そして、ピスタチオも食べ始めた。
その老人(75歳ぐらい)の椅子の下を見たら、ピスタチオの殻が沢山落ちていた。ビールを飲んでピスタチオの殻をむいて食べてという事を繰り返していた。ランチ時間に缶ビールとピスタチオだ。ビスタチアの殻はテーブルの下に落ちたまま何も掃除をしない。
私の感覚であれば、ピスタチオの殻をビニール袋に入れてテーブルの下に落とさない。このシニア男性はそんなマナーを身に着けていないで育ったのか、それてともゴミを拾って掃除すること自体を面倒だと思って知らんぷりでいたのか。
人間のマナーはその人のマナー教育に依存する。家庭内での教育が強く出て着やすい。しつけが厳しい家庭で育った人はマナーについて気を使う。今のビジネスパークには公共のためのゴミ箱が撤去されている。ゴミ箱がないという理由でゴミをそのままにしていく人もいる。
老いてくると道徳観やマナー面で意識が薄れてくる
隣でランチをしている私の耳には、ピスタチオの殻が地面に落ちてきている音が聞こえてくる。この75歳ぐらいの男性老人は、ピスタチオの殻を地面に落としたというよりは地面にわざと落としている。後でピスタチオの殻を拾ってかたずけるのかなと思ってみていたのだが、缶ビールを飲み終えてピスタチオを食べ終えると椅子から立ってどこかへ消えて行った。
一般常識がある大人で公衆マナーを身に付けた人間ならば、近くにあるゴミ箱にピスタチオの殻を捨てに行く。面白い事に缶ビールの缶は、ごみ箱に捨てて行ったのだ。
皆が使う野外のテーブルであるので彼に代わって私が椅子の下に散らかったピスタチオの殻を拾い集めてごみ箱に捨ててあげた。ちょっとした公衆道徳であるのだが、あの75歳代の老人男性は公衆道徳を身に付けていなかったのだろうか。
それとも、ピスタチオの殻は地面に捨てても良く、缶ビールの缶はごみ箱に捨てるという認識を持っていたのだろうか。昼間からお酒を飲む老人であるので私が住む世界の住民ではない。一寸違った世界に住んできた住民なのだろう。公衆マナーの感覚が違う。
公衆のマナーは誰かが見ている
老人の行動は見られている。よろよろと道路の脇を歩く老人は、ドライバーの目に危なく映っている。通勤で降りる横浜駅の階段をゆっくり降りる老人も通勤客から避けられている。普通の人と違う動きや行動をする老人は、その違いが目立つため周りの人から見られているのだ!
家庭で公衆道徳の教育がしっかり植え付けられていないで育った老人たちは、多から少なかれその感覚を一生持ち続けるのではないか。家庭教育の重要さを認識する。75歳代の老人は、高度成長期で頑張ってきた人たちが多い。その時代の大衆マナーでは、酒のつまみは地面に捨てても構わないという認識があったのだろう。
あの老人は、その習慣が身に付いてしまったために今日のような出来事が起こしたのだと想像している。 日本人の美徳は、住む街を奇麗にする感覚が強いという事だ。多くの外国人観光客は、街中にごみが落ちていない東京や横浜などの都市に驚く。
公園に行ってもゴミを持ち帰りする日本人の行動に驚く。住む街をごみで汚くさせないという感覚というか、公衆道徳が他国の隣人たちと比較して優れているのだ。アメリカ人もフランス人もトルコ人も韓国人も中国人もみんな日本の街がごみ一つ落ちていない事に驚いている。
進んでゴミを拾う老人たちがいれば、ごみをわざと捨てて行く老人もいる。私は、ゴミを地面に捨てる老人になりたくない!老人の行動は誰かが見ていないようで見られている。特に公衆での行動は目につきやすい。
老人が犯しやすい交通ルール
自動車を運転していると横断歩道がない場所を横断する老人をよく見かける。それも左右を確認しないで道路を渡っている。歩く速度も遅いため、運転手が気が付かなければ交通事故を起こすような感じである。なぜ何だといつも思っている。
家内曰く、遠回りをして横断歩道を渡るよりもショートカットをして道路を渡りたいという欲求が強いため。足が衰えて歩くのが疲れる老人は自分の都合を優先する傾向が強い。それがどんなに危険であっても目先のことだけしか見えていない。
横断歩道でも赤信号になっているのに道路を渡っていく老人も見かける。こうなると交通ルール以前の問題になる。信号機が見えていないのか、自動車が遠くに見えているだけで十分歩いて渡れると判断して自分の都合を優先してしまう。
スーパーマケットが道路を渡った場所にあると横断歩道が10m先にあってもショートカットで道路を渡っていく老人がいる。場所によっては横断歩道が少なくて歩道橋しかない場所もある。こんな道路では老人による道路横断が頻繁に起こる。自分の足では歩道橋を上っていけないと判断するためである。
老人が自転車を運転していると自転車が道路の中央まではみ出ることがある。そのうえ、自転車がゆらゆら揺れて走っている。そんな老人が運転する自転車を自動車が追い越すにはリスクがある。後ろを走る自動車に意識がいっていないで自転車を運転しているからだ。本当に老人が自転車を運転すべきかどうか疑いたくなる。交通事故にあうという危険を感じる感度が低くなってきているように感じる。
公衆マナーよりも自分の欲求を優先
老人になると自分の体が不自由になる。体力が落ちて速く歩けない、階段の上り下りが怖くなる。肉体的に不自由になるとそれをカバーすることを考え始める。自分の都合を優先して物事を達成しようとする。その行為が公衆マナー違反であっても構わないという考えになる。老人の精神も肉体同様に余裕がなくなる。
電車やバス車内での席取りマナーを見れば、それが分かる。周囲の状況を見ないで空いている席に突進して座る。グループでいるとそれがあからさまの行動になりやすい。老人の品位というか、品格が問われる。老いれば老いるほど世捨て人のような存在になる。
結論
挙動不審の老人を見かけることが多い。普通の人ならばこんな事をしない、そんな行動をしないと思えることをする。老いからくる身体の不自由と精神的な余裕の無さから直近の欲求を満たすことに優先順位が高まる。そこには公衆マナーや道徳を無視しても良いという考えがある。
老いは普通の人の行動をおかしくする。