93歳の義父は働かなくても生活が出来ている。自分のお金で生活が出来ている。年金と貯蓄で十分生活費が賄われている。70歳まで仕事をしていた。生活費の殆どが、食費と公共料金ぐらい。あと、税金。戦争経験者である義父の生活は私たちが迎える老後の生活とは違う。ある意味、裕福な環境で高度成長時期に活躍し、終身雇用制度の恩恵を受けた世代になる。

一方で、同世代の老人が生活保護で暮らしている。90歳代では働きたくても体が動かない。最低限の生活の中で自分の命がいつ尽きるかを待っている。人それぞれの人生がある。一概に良い、悪いと判断が出来ない。人生の最終判断はその人が死ぬときに楽しい人生の旅を終えたと感じるかどうかではないか。

どのように自分の人生の最後を終えたいか?「ピン、ピン、ころり」で死にたいという人が多い。でも問題は死ぬときではない。どのように残りの時間を使ったかではないか。

幸せなシニアは何かが違う

高齢者が自分で生活が出来る、出来ないの事情は個人に尽きる。個人の人生設計や生活姿勢で生活は何とでも変わるからだ。それよりも、現在、働ける健康と体力があるか、無いかだ。老人の挨拶は、必ず、こんな感じで始まる。

「体の調子は、いかがですか?」

70歳を過ぎれば、誰もが健康障害を一つや二つ持ち始める。軽いものから重いものまで。個人差がある。健康で元気な高齢者ならば、働く場所があれば働ける。働いている高齢者は、働けるだけの健康と体力を有しているという証拠だ。資産があり、働く必要が無い裕福な高齢者でも健康を害してベッド生活を送っているならば、人生は面白くない。

老後の生活で誰もが求めるのは、お金ではなく、健康と体力!

私は感じるのだが、都会人よりも田舎の老人の方が健康で体力があるのではないかと。田舎の生活は自営業か、農業か、林業か、漁業など自然を相手にした労働が多い。自然の都合で労働の成果が決まってしまう場合が多い。都会人は自然を相手にしていないで他の人間を相手に仕事をしている。

田舎で働いている人は自営業が多い。自分が働かないと生活が回らない環境にいる。都会人は組織に雇用されている人が多い。定年退職で仕事を追われる。仕事は私たちにとって精神的なペースメーカーであり、生活の糧でもある。働く事で体を動かす。自分を働かせる仕事は健康的な生活を維持する軸になっている。

田舎の人たちは仕事が無いとやることが無くなる。都会ほど遊ぶものがないし、人間も少ない。それ故、仕事に精を出す。都会人は仕事が無くてもお金さえあれば、遊べる娯楽が見つかりやすい。

だが、飽きる。生活のバランスが遊びだけでは築けない。生活のリズムも狂いだす。精神的に不安定になり、健康に悪影響を及ぼす。強制的に体を動かす仕事がないだけに体は楽な生活に溺れる。

働かなくても生活が出来る高齢者は、生活のリズムを自分で作りだし、体を意識的に動かして普通の生活が出来るように健康維持に努めなければならない。それが出来る高齢者は幸運な人たちである。多くは楽をして体を動かさない生活に陥る。体力は体を動かさないと維持できない。

おしりに火がついて必死になって働こうとする高齢者ならば、自然と体を動かし続けられる。動く事をやめたら生活が出来なくなるからだ。マグロが泳ぐことをやめたら死ぬという事と同じである。

何かに没頭する、夢中になれるシニア

老いて来ると子供心に戻ると言う。子供は面白い事に出くわすとそれに夢中になる。シニアも同じことをしても良い時間が与えられている。私が小学生の頃、川釣りに夢中であった。学校から帰るとランドセルを部屋に投げて餌になるミミズを探しに出かける。ミミズが手に入ると釣り竿とバケツを持って近くの川に釣りに行く。

日によって釣れる魚が違った。フナが多かったり、ハヤが多かったり、時には大きなウグイが釣れたりした。今日は何が釣れるかなという好奇心と魚が釣れる興奮に夢中になった。おかげで勉学は冴えなかった。

69歳になった今、何かに没頭する時間の使い方をしたいと思っている。それが今の仕事であっても良いし、週2回通っているスポーツジムの筋トレであっても良い。もし、経済的に苦しければ、生活に余裕をもたらすアルバイトであっても良い。

何かに夢中になると明日が来るのが楽しくなる。世間を気にせずに自分だけの世界で残りの時間を楽しんでみる。

お金を有効に使って欲求を満たす瞬間を味わう

高齢者にとってお金の価値は老いてくれば来るほど利用価値がなくなる。若者にこんな事をいうと理解できない。若者にとってお金の利用価値は年齢な関係なく大きいと信じている。私も若い頃までそう思っていた。その感じ方が還暦を過ぎた頃に変わった。

老いてしまうと体が不自由になり健康を害すると日々の活動に制約が生まれる。例えば、脚力を老化で失うと旅行にも行けなくなる。お金や時間が十分あっても旅行先で楽しめる体力と健康がないと意味がない。更に高齢者はモノに対する購買心が薄くなる。物は満たされている。

お金は若いときに使えばその対価を十分味わえる。体力と健康面で対価を100%受け取れるからである。それを考えると所有している金融資産を後に残しておいてはダメだとなる。

義両親の老人ホームの生活を見守ってきた経験から老人ホーム費用を貯めることは重要であるが、そこで使うお金は残りの人生を楽しむためのお金になっていない。死に行くための終着駅での滞在費である。そんな印象を受けた。

老いても健康であり、体力が衰えていないシニアならば、瞬間でも良いからお金を使って自分の欲求を満たすべきではないか。例えば、こんな事にお金を使ってみる。

  1. デパ地下で一度食べてみたいと思った料理を買って食べてみる。今まで高いから手を出さなかったお惣菜とか。
  2. 青春切符を買って1ヶ月ぐらい一人旅をしてみる。
  3. 豪華客船の旅を体験してみる。
  4. 高価なドローンを買って遊んでみる。
  5. ベンツをレンタルして3泊4日のドライブ旅行に出かけてみる。EQB 250 SUVが4日間で約8万2千円ぐらいで借りられる。今使っている自家用車との違いをドライブ旅行で楽しむ。
  6. 非日常の欲求体験を味わう事にお金を使う

予算を事前に決めてその範囲で自分の欲求を満たすお金の使い方を考えてみる。そうすれば、老人ホーム向けのお金も残る。

結論

何かの目標に向かって毎日やることがあるシニアは幸せである。日々やることがある高齢者は自然と脳と体を動かす。体を活動的に使う。70歳を来年に控え、横浜駅の地下街を眺めていた。多くのシニアが歩いている。一見して分かるのは暇を持て余した歩き方である。年齢的に70歳代や80歳代が多い。

老後の生活で誰もが困ることは「時間の使い方」である。健康と体力を失い始める老後の生活は活発に動ける間に残りの人生を楽しむことに使いたいと皆が思っている。できるならば、健康と体力をできるだけ維持しながら健康寿命を伸ばしたい。

どんなにお金があっても体力を失い、自分で動くことも難しくなるとお金を使う楽しみが見つからなくなるい。お金は普通の生活が自分でできている間でないとお金を使う見返りを享受できない。健康と体力は残りの人生を天国にしたり、地獄にしたりする。

私の義父は先月末に97歳で自然死(老衰)で他界した。実家で自活していた4年前まで義母と一緒に好きな事をしていた。老人ホームでの4年間は歩行器と車椅子の生活になった。老人ホームから外に出ることもなくなった。彼の世界は老人ホームの施設内に限られた。会う人達は施設の介護ヘルパー、看護師、医者、月2回の私たち夫婦との面会、施設で知り合った老人たちである。

彼はお金には不自由していなかったが、自分の健康と体力で不自由をしていた。健康と体力さえ維持できていれば、死を待つ施設での生活を送る必要はなかった。その現状をずっとモニターしてきた私たち夫婦は健康と体力維持のために何をすべきかを教えられた。