若いときにはなかった座骨神経痛というか、腰痛が60歳になったときから気になり始めている。時々襲ってくる(特定の角度で体を傾けると腰から痛みが襲ってくる)痛みがこれからずっと続くのではないかという不安がある。体は確実に年老いてきている。
一方、心はまだ若いときのままの気持ちでいる。このギャップに苦しめられる。私の心は、自分自身が老人、高齢者、シニア、お年寄りであるという認識がない。
若者の一言で私が老人であると気づく!
夜の8時頃、駅のベンチに座っていた。4人グループの若者一人が、こんな事を仲間に言っていたのを聞いた。
「あそこに4つベンチのイスが空いている。老人が一人いるけど。」
老人て俺のことか?周りを見ても私しかいない。あの青年は、私のことを言っている。自分は老人なのだ。自分ではそんなことを今まであまり意識していなかった。朝起きたとき洗面所で鏡を見れば、確かに老人の風貌だ。顔には深いシワがあり、肌も薄黒い。シミやイボも見える。頭の毛は薄くなり、そよ風で髪の毛が舞ってしまいそうだ。黒からグレー、そして、白く髪の毛の色が変わって来ている。
見た目は隠せない。
私の心の中をあの青年は見渡せない。私の心は、あの青年と同じ年齢だと訴えている。それが何故分からないんだと!こんな事を感じているのは私だけだろうか。多くの人たち(自分を老人であると認識したくない)は、私と同じ気持ちだろう。
体は年老いている。それを自分自身は認めたくない。本当であってもそれは違うと言いたいと。この気持ちをどうしたら良いのだろうか。体は、年寄りだと言っている。それを認めろと言っている。心はそれを拒んでいる。
家内は、自宅でピアノを子供や大人に教えている。小学1年生の女の子が私のことを覚えていて家内にこう言ったそうだ。「先生の旦那さんはお爺さんだね。」と。確かに小学1年生から見れば、私はお爺さんに見える。隠しようがない。こんな出来事が最近多くなってきている。
精神年齢と体の同期が取れていないと悩まないでも良い悩みが生まれてくる。若くしたい、若く見せたい。若い人たちと同じように付き合えるようにしたいと。
仕事柄若い人たちが集まるセミナーや懇親会に顔を出すことがある。自分が老人であるという印象がそんな時に意識させられる。それを気にしなければ良いだけだが、そこまで素直な自分に成れていない。全て時間が解決してくれると思っているが、悩みはつきない。
シニアであるというメリットを楽しむ思考を身につける必要があるのだろう。自分が老人であると認めて老人の視点で身の回りを見渡す。それに心を慣れさせる。自分が老人であるという世界は未知の世界である。