あるビジネス勉強会で生活に困っていない年金受給者のシニアがやってきた。大企業のOBであるため、企業年金、厚生年金、基礎年金で生活が十分できている。別に仕事を探さなくても毎日好きな事をやって余生を過ごせるのだが、彼曰く、「遊ぶことに飽きてシニアのためのシニアの仕事作りに興味を持った!」ために今日ここに参加したという。
お金に困らなければ働く必要もないのだが、何かしていないと精神的にも肉体的にも良くないという悩み事を抱えていた。贅沢な悩みであるが何かにチャレンジしたいという気持ちは伝わってくる。
働かなくても生活が出来る老人は何を求めるのか?
子供は働くという事を知らないため、遊びが全てだと思っている。だから、老人と違って遊び続けられる。老人は人生経験が豊かで世の中の仕組みを知っている。子供のような遊び方は続けられない。直ぐに飽きてしまう。自分の余生をもっと役に立たせられないかと探し始める。
人生経験と知識がある老人は人生に物足りなさを味わう。生活で困らない経済環境は老人にとって物足りない世界である。会社員であった頃は今日やるべきことがあった。限られた空間で会社が与えた目標に向かって仕事をすれば良かった。生活と人生のリズムは会社が与えていた。
会社という組織から解き放されて年金をもらう生活は自由を不自由に感じさせる。神様から与えられた命と言う時間を自分で考えて有効利用する事に慣れていないからだ。
精神的に物足りない生活をなんとかしたい!
働かないと食べていけないという老人と働かなくても食べて行ける老人では、命と言う時間の使い方に相当な違いがある。余生を自分で自由に使える時間を持っているか、制限された時間しか持っていないか。働かないと生活が出来ない老人は暇な時間をどう使ったら良いだろうかと悩む必要がない。
自由な時間を思う存分使える贅沢な老人は楽をしようと思えばとことん楽が出来る。ただ、面白くないだけだ。目的を見出せない人生は生活に追われている老人の人生と比べてつまらない。満たされた人生は直ぐに飽きる人生ではないだろうか。
5歳児は遊びを通じて住んでいる世界を学ぶ。満たされた老人は既に味わっている遊びではどうしても物足りなくなる。ビジネス勉強会に参加したこの老人は余生の生きがいを探しに来ている。お金を稼ぐ事が目的ではなく、シニアでもシニアのための仕事を作り出せるという事を実証したいためだ。シニア人口が急増する将来に向けてシニアが作れる仕事を自分たちで作り、少しでもシニアが飽きない生活を提供したいと彼は思っている。
チャレンジしたいシニア!
社会の中でも慈善事業がある。多くはNPO団体が活動している。子ども食堂、公園での炊き出し、困窮者相談所などニュースになる。人それぞれの力とリソースがある。その範囲で何が自分でできるかを決めてアクションを起こせは良い。経済的に余裕があるシニアは自分のリソースをお金に変える必要がない。そのメリットを最大限に活かせることを行うべきである。
既にビジネスを行っているシニアはどうすれば良いのか。そのビジネスを発展させて雇用を生む形に育てることかもしれない。それもシニアを雇用する機会を作ることである。
チャレンジしたいと思っているシニアが直ぐに何かに貢献できることを見つけられない。労賃を支払うことが出来ないが人手がほしいという福祉関連施設が多い。時々、新聞と一緒に地域の福祉団体が送迎バスの運転手を探しているチラシが入る。運転が得意なシニアならば、送迎サービスのボランティアが出来る。
Uber(ウーバー)などは人や物を運ぶというサービスで事業が成り立っている。このサービスはお金がない人は対象外になる。社会で困っている人たちの中には自分の力で移動ができない人達がいる。そんな人達を助ける活動が送迎サービスにある。
隣の老夫婦が毎週病院に通わねばならないが病院に行くための足がない。自動車も運転できず、自転車に乗る体力もない。タクシーを呼んで病院までの行き帰りで費用がかさむ。そんな老人たちが増えてきている。何を始めるにも身近な所から始めるのが基本。自分の自動車で週1回隣人の老夫婦を病院まで送迎してやる。
経済的に余裕があればガソリン代と送迎での時間は負担に成らない。注意することは交通事故に合わないようにすることだけ。身近に困っている人を助けることはチャレンジである。自発的なボランティアであるが責任が伴う。一度始めたらなかなかやめられない。
でも、自分の時間が人の役に立つことに使われる。精神的な満足感を得られ、感謝される。そんなシニアがいても不思議ではない。
裕福なシニアは社会の中で見えていない存在
裕福な高齢者がニュース沙汰になる。特殊詐欺の被害者となって多額の金銭を騙し取られる。見かけはお金持ちに見えないのに数千万から億単位の金融資産を持っている。そんなに多額のお金を持っているならば、そのお金を何か良い事に活用しようとしないのかと私は思う。
年金で「働かなくても食べて行ける老人」は何か社会活動をしていないと見えない存在になって行く。積極的に社会貢献をしたいという情熱があるシニアならば、一隅を照らす人になってはどうか。自分の時間を自分より困っている人たちのために使うという行為で一隅を照らす事ができる。
自分の時間を使って社会にプラスになる活動をするだけで命という時間が有効に使われる。経済的に豊かなシニアは一隅を照らす活動を自発的に考えアクションを起こすことで人生の物足りなさを満たすことが出来る。
結論
「働かないと食べていけないという老人」と「働かなくても食べて行ける老人」ではどちらが幸せか。自分がどちら側にいるかで答えが変わってくる。「働かないと食べていけないという老人」は生きるか、死ぬかの生活であるため精神的に悩む暇がない。「働かなくても食べて行ける老人」は生きられるが精神的に満たされないため暇に苦しむ。
経済的に豊かなシニアは一隅を照らす活動をすべきである。暇な時間を有効に使う。